8月15日 静岡県富士市に生まれる。
子供のころから富士山と茶畑に見守られながら育ったヨシカツ。学校のグラウンドでは富士を背景にサッカーをしてきた。どこにいても富士山の方角が気になるほど富士への強い思いをもつ。獅子座のA型。
子供のころから富士山と茶畑に見守られながら育ったヨシカツ。学校のグラウンドでは富士を背景にサッカーをしてきた。どこにいても富士山の方角が気になるほど富士への強い思いをもつ。獅子座のA型。
キャプテン翼と兄の影響でサッカーを始める。さまざまなスポーツをそつなくこなす運動神経を持っていたが、サッカーだけは自分の思うようにならず、本気で取り組もうと決意。4年生の時に指導者から指名されてゴールキーパーに挑戦することになる。ユニフォームも自分だけ違っていて目立つこと、そしてなにより試合にでられるからというのがその理由。
練習を繰り返すうちに少しずつシュートを止められるようになり、よりカッコよく止める瞬間に楽しさを覚えるようになる。ゴールキーパーとしてはそれほど背の高くなかったヨシカツは、相手の足元に飛び込み距離を縮めて体で止める事は自分にあっていると感じていた。攻撃的と評されるヨシカツのプレースタイルはこの時から始まった。
参考:人を大切にする日本一幸せな学校 静岡県富士市立天間小学校
小学校5年生の時に実家が全焼してしまった。失意の中、家族のためにすぐ家を建て直すと宣言し、そのとおりに実行した父親の姿が今も心の支えとして胸に残る。そんな家を建て直して家計が大変な時に、ヨシカツと兄の希望進路が共に私立であったが、兄は「俺は大丈夫だから、お前は強豪の東海大一中へ行け。その代わり必ず俺を国立に連れて行ってくれ。」と激励し、ヨシカツに道を譲る。母もヨシカツを応援し続け、高校生になり寮生活になると富士から清水まで通って洗濯をするなどヨシカツを支える。厳しい状況にあっても、こうした家族の支えがあってサッカーに打ち込むことができた。
地域の選抜チームでもプレーしていたヨシカツだが、より高いレベルの環境を求め、静岡市にある多くのプロサッカー選手を輩出する私立 東海大学第一中学校(現:東海大学付属静岡翔洋高等学校・中等部)へ進学。早朝の電車通学が始まる。ヨシカツが弱音を吐くほど厳しい練習が続いたが、在学中、3年連続で全国大会に出場した。なおこの時から8年後、アトランタでブラジル代表を撃破する「マイアミの奇跡」のオリンピック代表メンバーには、同校で2学年上の服部年宏、1学年上からは伊東輝悦、白井博幸、松原良香、ヨシカツの5名の選手がいた。元日本代表FW高原直泰もヨシカツの4学年下で同校出身である。
参考:多くのプロサッカー選手を輩出する 東海大学付属静岡翔洋高等学校・中等部
実家を離れサッカーの名門、清商(現:清水桜が丘高校)へ。下宿生活が始まる。3年生の時にはキャプテンを務め、全国選手権の準決勝で城彰二を擁する鹿児島実業をPK戦の末に破り、決勝では前年度王者の国見に2-1で勝利。5年ぶり3度目の優勝に大きく貢献し、兄との約束を果たすこととなった。ただ入学当初は「富士市出身で本当にサッカーがうまいのか?」という風に周囲から見られていると感じていた。清水市では未就学児のサッカー大会でも子供たちはポジションの概念を持ってプレーしていた。ヨシカツはそうした雰囲気をバネにして1年生からレギュラーを獲得する。
高校選手権優勝3回、高校総体優勝4回、全日本ユース選手権優勝5回に導いた高校サッカー界の名将 大瀧雅良監督との出会いもこの時であった。
「これからのキーパーはゴールを守っているだけでは駄目だ。」
中学時代の恩師である桜井先生に続き、大滝監督もヨシカツの相手の足元に飛び込むプレースタイルを後押しする。こうした言葉によって自身のプレースタイルに確信を持つ。
なお2つ上の学年には現SC相模原会長の望月重良が。1つ下には元SC相模原監督の安永聡太郎がいた。ちなみに大滝監督とは未だに手紙で「3人(ヨシカツ・安永・望月)をよろしく頼みます。」と弊クラブへの挨拶を欠かさない愛情溢れた指導者でもある。
参考:名門 静岡市立清水商業高等学校
西野朗監督はヨシカツと共に、服部年宏、伊東輝悦を召集。後にマイアミの奇跡を起こすベースとなるこのチームで、1979年の自国開催以来、出場権を獲得できなかったワールドユースを目指して戦う。しかし準決勝で死闘の末に韓国に敗れてしまう。ヨシカツはあまりに悔しくてこの日は眠れなかった。
この敗戦の前までは、誕生したばかりでどうなるかわからなかったJリーグではなく、私立にまで進学させてくれた親のことも考え、大学に進学し教員免許を取得して指導者になろうと考えていたが、この悔しさを晴らすには4年後のアトランタオリンピックに出場するしかないと感じ、Jリーグへ進むことを決断する。
なおこのときのコーチは後にジュビロ磐田にヨシカツを誘うことになる山本昌邦氏であり、この試合で得点を挙げた韓国のFW崔龍洙(チェ・ヨンス)とは後にジュビロで共にプレーすることになる。
数々のJリーグクラブの誘いの中から横浜マリノス(現:横浜F・マリノス)へ。ヨシカツは当時不動の日本代表GKだった松永成立に強い憧れを抱き、松永とのポジション争いによって自分を成長させるためにマリノスを選んだ。そのため数年は試合にでられないことを覚悟していたが、チャンスは思っていたよりも早くやってくることになる。
なお松永は前年の1993年、日本サッカー史に名を残す「ドーハの悲劇」のゴールキーパー。ロスタイムに得点を決められ、この悲劇の舞台に上がってしまう。松永はこの試合後のしばしの記憶がないと後に語っている。
この3年後に「ジョホールバルの歓喜」の舞台に上がる川口。その二人がこの時同じチームですれ違ったことは奇縁としかいいようがない。
この年就任したホルヘ・ソラリ新監督によってヨシカツは大抜擢される。高卒2年目のヨシカツがサポートを受け、守備の哲学を学んだのは、日本サッカー界を代表するディフェンダーである井原正巳であった。
なおこの2年後のフランスW杯の最終予選、本大会出場のために負けられない岡田監督の初采配であったウズベキスタン戦で、ヨシカツは極度のプレッシャーのために泣きながら試合をしていた。ヨシカツの長いキーパー人生でも泣きながらプレーしたのはこの試合だけである。そのヨシカツがなんとか平常心を保てたのは最終ラインにいた井原のお蔭であった。井原がそこにいるだけで心強かった。
ヨシカツにとって強いキャプテンの象徴といえば井原のことである。
井原さんは自分がデビューしたときに本当に助けてくれた人ですね。自分がプロとしてデビューするにあたり井原さんのサポートがなかったら・・・ ピッチに立った時に井原さんが醸し出す安心感とリーダーシップ。井原さんが僕と同じピッチに立っていてくれたから自分もプロのキーパーとして試合に出続けられたのかなと思います。当時代表でも主力でマリノスでも代表でもキャプテンをやっていましたからね。井原さんの背中を見てきた。トレーニングに対する姿勢だったり試合に対するアプローチだったり影響を受けた。真面目で常に冷静ですね。安心感やリーダーシップもあり全てを備えていた人でした。
Jリーグ通算500試合出場おめでとうござます。
能活とは日本代表でも共にプレーをし、対戦相手としてもたくさん対戦しました。自分がヴェルディの頃は、能活がマリノスで、能活からゴールを決めることで、当時自分自身に自信が持てた記憶があります。
代表ではいつもシュート練習の相手をしてもらっていましたね。本当に良い思い出です。
積み重ねることはとても大変なことですが、これからも出場記録をのばせるよう頑張ってください。
カズさんはサッカー界のみならず、日本のスポーツ界におけるレジェンドですね。この歳までプレーされているので体力維持やプロ意識、そして何より精神力。カズさんがいるから日本のサッカー界が成長し続けられているのだと思う。
僕が中学生の時にカズさんがサントスSCとして来日したときに静岡でサイン会をされました。僕はカズさんのサインをもらうためにそのサイン会に行ったことをいまでも覚えていますね。日本代表でもよく一緒に練習もしてくださいましたし、カズさんは僕にとって大きく影響を受けた方です。イタリアから帰ってきてヴェルディ川崎在籍時に試合をしたことがあって、その時に僕はカズさんのシュートを止められなかったんです。僕の手元でぐっと伸びるようなシュートでした。
やはりイタリアで経験されてるカズさんは何かが違うなと感じました。
自身初となるJリーグのタイトルを獲得
日本歯科医師会主催。前年度の受賞者はプロ野球イチロー選手であった。
4年前、ワールドユース予選で味わった悔しさをバネにしてここまでたどり着いた西野朗監督率いるU-23日本代表の前に立ちはだかったのはU-23ブラジル代表。
94年のワールドカップ優勝国であるブラジル。ザガロ監督はフル代表に召集されていた23歳以下のロナウド、ロベルト・カルロス、フラビオ・コンセイソン、ジュニーニョ・パウリスタ、サヴィオに加えオーバーエイジで94年の優勝メンバーであるベベット、アウダイール、さらにリバウドを招集。フル代表とさほど変わらないようなチームで悲願のオリンピック初優勝に望んだ。
しかし日本は綿密なスカウティングのもとにこのブラジルを撃破する。日本の誰もが驚いたこの試合、28本のシュートを浴びながら無失点に抑え、後にマイアミの奇跡と呼ばれるが、ヨシカツにとっては奇跡ではなく、しっかりとした準備をして、集中して試合に臨むことで結果がついてくると信じることができるようになった試合であった。そしてヨシカツはこの翌月にA代表に初招集される。
なおこの試合でロベルト・カルロスが放ったフリーキックのキャッチを「自身が最も驚いたセーブの一つ」として引退会見の際に答えた。
この翌年、ザガロ監督率いるブラジル代表はFIFAコンフェデレーションズカップとコパ・アメリカを制する。1970年に監督としてワールドカップ・メキシコ大会で優勝。98年大会でも準優勝に輝くなど監督・コーチとして臨んだブラジル代表戦全154試合での勝敗は110勝33分11敗。マイアミの奇跡はこの11敗に含まれる。
1シーズンを通して最も活躍が認められた選手に贈られる賞。Jリーグでもトップレベルの存在に。
アトランタオリンピックでの活躍が認められ、加茂監督から日本代表メンバーとして初召集される。当時の日本代表GKには31歳の小島伸幸や、27歳の下川健一などが名前を連ねていたが、なんとか試合に出ようと必死でアピール。2月13日にタイで行われたキングスカップ・スウェーデン戦で国際Aマッチ初出場を果たすと、この年残りのAマッチすべてにスタメン出場を果たし、正ゴールキーパーの地位を獲得した。フランスワールドカップ最終予選、ジョホールバルの歓喜として知られる11月16日の最終予選第3代表決定戦も先発出場し、歓喜の輪に加わった。日本におけるゴールキーパーとしての地位を飛躍的に向上させる1年となった。
この年マリノスに大型新人が入団する。前年に高校選手権で準優勝を果たし、その左足から繰り出されるフリーキックは魔法のような弧を描く。彼のFKを育んだのは井原、小村、城彰二という壁であり、奥にはヨシカツが控えるという練習環境であった。絶対に壁に当てられないというプレッシャー下での練習がこのルーキーの左足を磨いた。ヨシカツは彼が望むままに練習に付き合い、何千本も受けてきた。
飲酒も喫煙もせず、極力脂肪分の摂取を避け、天ぷらの衣をはがし、肉はグリルで焼いて油を落とす。1日5回体重計にのり、100グラム単位で自己管理するヨシカツ。すべてをサッカーにささげるヨシカツの姿に強い影響を受けた。
俊輔はもう僕の手の届かないようなところにいってしまった選手ですね(笑)
練習がすごく好きでどの監督からも愛されていました。マリノスの監督からも代表の監督からも俊輔は認められていたと思いますね。やはり光るものがあったのでしょう。俊輔はゲームを決められるんですよ。やはりゲームを決定づけられるという選手はなかなかいない。さらにこの歳になってもゲームを決定づけられるというのが凄い。一緒にトレーニングや自主練もよくやっていましたね。僕も見習いたいですね。
彼に対しては、歳下ですがリスペクトでしかないです。
ただ一人、フランスW杯予選にフル出場したヨシカツ。本大会も日本代表に選出され、1次リーグ3試合にもフル出場する。残念ながら日本は予選を突破できなかったが、初戦で対戦したアルゼンチンFWガブリエル・バティストゥータに衝撃を受ける。事前のスカウティングで彼の強烈なシュートを目に焼き付けたヨシカツは、試合で1対1の場面になったときに身体を張ってその強烈なシュートを止めにいった。が、しかし飛び出したヨシカツを嘲笑うがごとくループシュートを放たれ決勝点を奪われる。
このプレーに世界との差を感ぜずにはいられなかった。
入団から5年目のこの年に100試合出場を達成する。23歳で日本初のW杯にも出場し、日の出の勢いのヨシカツ。なおこの試合、相手のゴールマウスの前に立っていたのはあの楢崎正剛であった。
この年から国際Aマッチ初出場を果たしたGK楢崎正剛。この年は2試合の出場にとどまったが、ヨシカツと楢崎の長きにわたる代表ポジション争いがこの年から始まる。
自国開催のW杯に向けて就任から思わしい結果がでていなかったフィリップ・トルシエ監督だったが、圧倒的な攻撃力でこの大会を優勝。未だアジアカップ最強と呼ばれるこのチーム、日韓W杯での活躍を予感させた。ヨシカツはこの大会も正GKとして出場。決勝の後半、サウジアラビア代表の怒涛の攻撃を防ぎきり、1-0で完封する。自身のベストゲームとして挙げるこの試合の決勝点は中村俊輔のフリーキックをゴール前の望月重良が右足で押し込んだものであった。
ちなみにこの決勝の舞台に先発したメンバー11人の内、6人(高原直泰・西澤明訓・名波浩・望月重良・服部年宏・ヨシカツ)が清水市の高校出身で、交代して出場した小野伸二を含めるとその数は7人になる。
世界との壁を感じ海外でのプレーを求めていたヨシカツ。シーズン途中で念願の海外移籍を果たす。
前年度アジアカップを制した日本はコンフェデレーションズカップに出場。各大陸王者8カ国、ヨーロッパからフランス、南米からはブラジルが出場するこの大会で日本は準優勝を果たす。準決勝では降りしきる雨の中、ヨシカツのスーパーセーブ、中田英寿の濡れたピッチの上を滑らせる低いフリーキックでオーストラリアを撃破した。ブラジルとの再戦はならず、決勝でフランスに0-1で敗れはしたが、ヨシカツは代表でも素晴らしい活躍を見せた。
当初、新天地では期待を持って受け入れられたヨシカツだったが、それはすぐ失望に変わる。言葉の問題だけではなく、シーズン途中の移籍であったため、ディフェンスに対する考え方、チームメイト、コーチと十分なコミュニケーションをとる時間がなかった。この頃はまだ日本人選手の海外移籍は珍しく、GKとしてはヨシカツが初であった。それに加え、チームでは失点はゴールキーパーの責任として見られる雰囲気があり、その事もヨシカツを苦しめた。
移籍してわずか三ヶ月でクラブ会長から放たれたこの言葉がヨシカツの胸をえぐった。
それでも海外移籍した決断を無駄にはできない。必要ないといわれてもチームに残りたいと伝える。その後もユースの試合に出場させられるなどの不遇な扱いをうけ、さらなる苦境がヨシカツを苦しめるが、それでも腐る事はせず、自身のサッカーへ向き合う姿勢を変えることもしなかった。
クラブで苦しい状況が続くヨシカツであったが、フランス大会に続き、自国での初開催となる日韓大会でも代表として選出される。トルシエ監督が代表監督を務めたこの4年間は自身のコンディションのよさを感じる時期であったのだが、本大会では正GKの座を楢崎正剛に明け渡す悔しい大会となった。それでも予選を突破した後、トルシエ監督から「トーナメントを勝ち抜くにはお前の身体能力が必要だから、準備しておいてほしい。」との言葉をかけられる。この言葉でモチベーションを保つことができたし、トルシエ監督からの強い信頼を感じてもいた。
なおこの大会直前、ドーハの悲劇を経験し、前回のフランスW杯には主力として出場した中山雅史が招集され、驚きをもって報じられた。中山は直前の遠征にも召集されておらず、経験を評価されての選考だとメディアで伝えられた。所属クラブでは主力でありながら、このチームではサポート役の期待を感じたのか、練習にしっかり取り組むだけではなく、中山を中心に笑いがうまれた。大会前は代表メンバー争いが激しく、チーム内にどことなくギスギスしたものを感じていたヨシカツであったが、実力も、実績もあるこのベテランの振る舞いのお蔭でチームの雰囲気がよくなるのを感じた。選手としても、人間としても尊敬する思いであった。
大会が終わりヨシカツもポーツマスに戻るが、苦しい状況に変化はなかった。そんな中、新たに代表監督に就任したジーコ監督がヨシカツの元を訪れ、「必ずチャンスがやってくるから、それを信じて頑張ってほしい。」と激励する。この先、クラブでも代表でもどうなるかわからない状況にあったヨシカツはこの言葉に大いに勇気をもらった。
ヨシカツとはプレースタイルが異なる楢崎正剛。守備範囲が広くかつ安定感に定評のあるこのGKの台頭によりAマッチ出場は2試合に留まった。
「試合に出たい。」
出場機会を求めたヨシカツは移籍を決意する。スタメンを確約して欲しいのではなく、平等に競争できる環境を求めた。それに海外での挑戦をまだ続けたかった。最終的にデンマーク ノアシェランへの移籍を決意する。移籍当初、試合に出場していたヨシカツであったが、DF陣との連携がうまくいかなかったり、何試合か大量失点をしてしまい、また試合に出られない日々が続くことになる。この頃、ノアシェランのGKコーチーから「サッカーだけでなく、もっと人生を楽しんだらどうだ?」とアドバイスされる。当時のヨシカツは自身の挑戦を成功させるために必死で、何かを楽しむ事などしなかった。必死すぎて、心に余裕のないヨシカツへの思いやりに溢れたアドバイスであった。彼はヨシカツがデンマークを去る際には家に訪れて涙を流してくれた。
サッカーに馴染みがない人でもこの奇跡を記憶している人は多いのではないか。7月31日、中国は重慶で行われたその試合は1-1の同点で迎えたPK戦、日本は2本を外し、対するヨルダンは3本を決める。もう後がない日本であったが、3本目のPKの際、ヨシカツは5万人を超える観客が喚声を上げるスタジアムである感触をつかむ。喧騒が耳に届かず、静かな瞬間が流れ、相手のシュートまでの動きがスローモーションのように見える。いける。そう感じたヨシカツはここから4本連続でPKを防ぐ。
『ゾーン』
そう呼ばれるアスリート特有の感覚。極度の集中状態。興奮状態にあるスタジアムを他所に、ヨシカツの心は静かな水面のように冷静で、相手の事も、自分の事も完璧に把握できた。1本も決められてはいけないPKでヨシカツは神がかったプレーを連発し、多くの人の記憶に残ることになった。
重慶の奇跡。それはヨシカツの代名詞である。
当時キャプテンであった宮本恒靖がレフリーに抗議した際に話したといわれている言葉である。このやり取りの後、PK戦を行っているサイドが変更され、重慶の奇跡につながった。
ジュビロに決めたのは、前年からジュビロの監督で、ユース・アトランタオリンピックではコーチを、トルシエ監督の元では補佐を務め、長年にわたりお世話になった山本昌邦氏に誘われたことが大きかった。この時のジュビロには、中学高校の先輩後輩や、アトランタで共に戦った仲間である藤田俊哉、名波浩、服部年宏、田中誠、鈴木秀人らがおり、人間関係においても溶け込みやすい状況であった。なおこのヨシカツの移籍の後、ジュビロとノアシェランの間でGKコーチの留学を考慮したパートナーシップ契約が締結された。
200試合出場となったこの試合、共に戦う仲間には清水の時から一緒だった服部年宏、田中誠。率いる監督は山本昌邦。そしてガンバの監督はマイアミでオリンピック代表を率いた西野朗であった。ちなみにこの試合のガンバのピッチには遠藤保仁がいたが、彼はヨシカツの100試合目にもフリューゲルスの選手として出場している。
1分2敗に終わったW杯ドイツ大会。初戦のオーストラリア戦で1点リードで迎えた試合終了まで残りおよそ10分、相手のロングスローに対して飛び出していったが僅かに手が届かずにゴールを決められてしまう。長いヨシカツのゴールキーパー人生においても、忘れられない失点となってしまった。
グループリーグ3戦目では、予選を突破するために最低でも2点差以上の勝利をブラジル相手に収めなければならなかったが、この試合のブラジルのスタメンには、ロナウド、カカ、ロナウジーニョといった歴代ブラジル代表でも名を残すような選手がいた。その攻撃の凄まじさ、ボールを持たれたらとにかくシュートまで持ってこられるイメージしか沸かず、ヨシカツも恐怖を覚えた。後にこの経験があったために、相手にどのような選手がいようとも怖いとは思わなくなった。
なお引退記者会見ではこのブラジル戦の2点目、ジュニーニョ・ペルナンブカーノ選手の右足から放たれた無回転ミドルシュートを「今まで受けた中で一番強烈だったシュート」として挙げ、「あのシュートはもう一度受けても……もしかしたら今だったら予想できるかもしれませんが、あの衝撃は今でも覚えています。素晴らしいシュートでした。」と答えている。
元ブラジル代表ミッドフィールダー。歴代でも世界一と称されるフリーキックの名手で、無回転のブレ球を得意とし、その右足は「魔法の右足」と形容された。フランス リヨン在籍時代にUEFAチャンピオンズリーグでFCバルセロナと対戦した際に、左サイドの角度のない位置から決めたフリーキックは敵将ジョゼップ・グアルディオラをして「ゴールに7人キーパーを配しても止められないだろう。」といわしめた。
アウェイで迎えた300試合目、前半17分に失点し苦しい展開に。チームも4月まではリーグ戦上位をうかがう様子を見せていたが、次第に成績が降下、入れ替え戦に回ることになる。
この年の11月にドーハで行われた南アフリカW杯予選のカタール戦がヨシカツが出場した最後のAマッチとなった。なお試合は3-0で日本が勝利している。
スルーパスに反応した相手FWに向かうが一歩及ばずに接触。足を痛める。少し動かしただけでバキッという音がした。折れていることはすぐにわかった。ジュビロはヨシカツに代わりGK八田直樹を投入。担架で運ばれるヨシカツにサポーターは能活コールを送るが・・・
この試合まで自身の調子も上がってきて、クラブでも、代表でも活躍できそうだった矢先の大怪我。全治六ヶ月と告げられ、思わず涙した。ヨシカツはこの怪我によってコンディショニングに難しさを抱えるようになる。右脛を骨折したことにより、どうしても左右のバランスが悪くなってしまい、これまでと同じ方法では自身の状態を保つことが難しくなった。相手の足元に飛び込んでいくためこれまでも多くの怪我をしてきたが、ここから本格的な怪我との戦いが始まる。
リハビリ中のヨシカツにオシム監督は「南アフリカワールドカップを目指せ。」「ベンチではなくピッチに立つことを考えろ。」と激励した。「お前はベンチにいても役に立たないのだから」と。この言葉に強い愛情を感じたヨシカツは涙が出るほどに喜んだ。こうした言葉に励まされてリハビリに強い意欲で臨むことができた。
代表召集なし
病気のオシム監督に変わって就任した岡田監督から、前年に脛を骨折したにもかかわらず、W杯南アフリカ大会の最終メンバーとして召集される。異例のことであった。ただし第三ゴールキーパーだと明言されてしまう。試合にでられる可能性が低い状況であったが、自身のコンディションはもちろん、若い選手がやりやすい雰囲気づくりを心がけた。それはかつて日韓大会でチームによい雰囲気をつくりだした中山、秋田といったベテラン選手の背中を見ていたからでもある。ヨシカツ自身、フランスは自分、日韓は楢崎、ドイツは自分だったので、南アフリカは楢崎の番だろうと思っていたが選ばれたのは若き川島永嗣であった。それでもチームのために献身的な態度をとる楢崎にヨシカツは頭の下がる思いであった。
二人はお互いを高めあえる存在として認めあっている。十年以上代表のレギュラーを争ってきたというような張り詰めた空気はなく、ゴールキーパーとしても、プライベートでもよき関係である。ヨシカツにとっては「正剛」であり、楢崎にとっては「よっちゃん」だ。互いの存在がなければ果たして今日、二人はゴールマウスの前に立っていることができただろうか。
正剛と僕とで代表の正キーパーのイスを争ってきた仲ですよね。やはり彼なくしていまの自分はないし、切磋琢磨してお互いレベルアップできたのではないかと思いますね。
--仲は良かったのですか?
仲は良かったです。でも周りにはどうしても1つのポジションを争うライバルだから関係が難しいのではないかと心配されましたが。でもそこはピッチとピッチの外では違うし普段は仲良くしていました。歳も近いですしね。彼は大阪人なのでよくつっこまてたりもしていました。良い関係でしたね。代表のポジションを争っている当時は「意識をしていない」と言っていたが、今となっては意識していましたね。でも、だから高め合えたのだと思いますね。
代表召集されるも出場なし
400試合出場となったこの試合、朝から生憎の雨であったが1万人を越える観客がスタジアムを訪れる。ホームで迎えたこの試合、400試合出場を祝う記念のセレモニーや、サポーターから能活コールをうける。そしてなによりチームメイトがヨシカツへ勝利をプレゼントしたいと試合前に話をしてくれていたことが嬉しかった。
脛の骨折から復帰して、W杯に召集され、ナビスコカップでも活躍をしたヨシカツであったが、2度目の大きな怪我をしてしまう。3月17日のリーグ戦、400試合出場した後、練習中に右アキレス腱を断裂する。右脛の骨折との因果関係も否定できないと感じていた。復帰はこの年の天皇杯。およそ6ヶ月を擁した。
2度目の大怪我に心が折れそうになるも、家族や、スタッフの支え、その他大勢の人から多くのものを与えられてきたことを思いだすと、このまま中途半端に終わることはできないと奮起した。必死でリハビリに取り組む。それゆえに復帰できた時のヨシカツの喜びは無上のものであった。
ようやくの思いで怪我から復帰するも、自身のコンディションも、チームの状態も思わしくなく、出場機会が減少してしまう。そしてこの年のオフに契約更新の意思がないことをクラブから告げられる。18歳でJリーグの世界に飛び込んでからずっとプロとして歩んできたヨシカツに来季プレーするチームが決まっていない状態が初めて訪れた。ちょうど二人目の子供が生まれたばかりでとても不安な気持ちでこの年を越すことになった。わずか3年前は日本代表であった。
リーグ誕生20周年を記念して、過去20年間のJリーグベストイレブンを選出するJリーグ主催の賞。
不安な時期を過ごしたヨシカツであったが、自分を求めてくれるチームがあると知り安堵する。いくつかの候補から最終的に岐阜へ。この年から就任したラモス監督に直接声をかけてもらったことが決め手となった。若い時は周りの選手を叱咤激励することで自らをも鼓舞するヨシカツであったが、今同じことをすれば萎縮する若い選手がいるかもしれない。そう考え、また違ったやり方で若い選手を伸び伸びとプレーさせようと努めた。
岐阜でコンディションが上がらず、試合にでられない時に「お前はベンチに必要ない」と以前にオシム監督からかけられたのと同じような言葉をラモス監督からもかけられた。そうか、俺が戻るのはベンチではなく、ピッチなんだ。すぐにラモス監督の言葉を理解したヨシカツはとても嬉しかった。
「チームにお前は必要ない。」
「お前はベンチに必要ない。」
行く先でさまざまな言葉をかけられたヨシカツであったが、時にその言葉に勇気をもらい、時にはそれをバネにしてきた。これこそが人間 川口能活の真骨頂である。
ヨーロッパで単身暮らしていた時期はあったが、家族を持つようになってから単身で暮らすことには不安をおぼえた。特に生まれたばかりの二人目のことが気になっていた。なるべく連絡したり、帰るようにするなど、サッカーでは逆境にも負けずに乗り越えてきたヨシカツも、家庭人としてはほかの誰とも変わらない父親である。
怪我を抱えてからのヨシカツのコンディション調整はとても難しい。いいかな?と思うとまた怪我をしてしまう。どこかをかばうことで、違うどこかに負担がかかり、そこを痛めてしまうのだ。また今回も右足だった。
岐阜2年目のこのシーズン、復帰まで半年以上かかり、6試合の出場にとどまったヨシカツに契約更新はなかった。ただ以前と違ったのは、すでに声をかけてもらっていたことだった。
「お前、清商にこいよ。」
その言葉を聞いたのはヨシカツが中学3年の1990年、15歳の時だった。そして25年後、四半世紀を経てかけられた2度目のオファー。待てばほかにもオファーがあったかもしれないが、胸に響く言葉で自らの道を歩んできたヨシカツはこの言葉で相模原への移籍を決断する。望月は清商の2つ上の先輩で、同世代には藤田俊哉、名波浩、大岩剛、薩川了洋、平野孝、西ケ谷隆之らがいた。厳しい先輩ではあったが、上下関係を重んじる古い体育会系の体質をよしとせず、実力もあり、他の選手とは明らかに違うヨシカツの事を認めていた。望月は15歳のヨシカツがこの先プロでやっていくための資質を持っていると感じたという。
J2にいった時もそれまでと違う環境に驚いたが、相模原はJ2のライセンスを持たず、専用の練習場もない。日々違う練習場に通い、練習後は駐車場でクールダウンすることもしばしばだ。
それでも家族のいる自宅から通えることが嬉しかったし、力になっている。ホームゲームに家族を招待できることは大きな励みだ。ここ数年、春先はコンディションの調整が難しく、開幕スタメンこそ逃したが、5月8日にホーム秋田戦でJ3デビューを果たすと19試合に出場した。
相模原ではこれまで以上にチームメイトへのアドバイスや、クラブのホームタウン活動への参加を積極的に行っている。自分に求められている役割もこれまでとは違うものがあることも理解している。J3でヨシカツの新たな挑戦が始まった。
気温12.2度、寒空のギオンスタジアムに5,000人を超えるサポーターが集まった。前節後半から途中交代し、怪我での出場が危ぶまれたヨシカツであったが、ピッチに元気な姿を見せた。試合はヨシカツを祝う勝利とはならなかったが、試合後のスタジアムには多くのサポーターが残り、ヨシカツの500試合出場を祝った。引き分けたことに悔しさを滲ませるヨシカツの姿に、今なお熱く燃える勝負への執念を感じさせる一戦であった。
試合後ヨシカツコメントこの偉業500試合には、リーグ戦以外のカップ戦、天皇杯、入れ替え戦、海外クラブチームでの試合、ユース代表、そしてゴールキーパーとして最多の日本代表116キャップは含まれていません。この500試合はそうした試合と並行して長年にわたり積み上げられてきました。日本中の誰もが注目する試合でも、そうではない試合でも、ヨシカツはなんら自分のサッカーへの向き合い方を変えることなく準備し、試合に臨み、私たちに胸の熱くなる試合を届けてきてくれました。そしてこれからもその数を増やし続ける日本を代表するアスリート、それが川口能活選手です。
この偉業への尊敬、この努力の歴史の中に相模原の名前を刻んで頂いたことへの感謝、人間 川口能活への敬愛を込めてこのメモリアルサイトを贈ります。
2017年11月19日
株式会社スポーツクラブ相模原
常にフェアに競える環境を求め、ポジションを勝ち取ってきたヨシカツ。今シーズン、若手の台頭により徐々に試合に出られない日々が増えてゆく。出られないことを誰よりも悔しいと感じているはずのヨシカツが、チームの勝利を誰より喜び、仲間を祝福する姿に私たちは胸を打たれました。
--引退を決めた理由は?
実は、この1、2年ぐらいですね、プレーを続けるか、あるいは引退するか、その狭間で揺れていました。サッカーは大好きですし、続けたい。でも、試合に出れない時もありましたし、揺れてはいたんですけど、今年のロシアW杯をはじめ、日本代表の戦い、各カテゴリーのアジアでの戦いぶりを見まして、僕が代表でプレーしていた時よりも、上のレベルというか、世界で戦える日本のサッカーになってきているなと思ったんですね。その状況の中で、また違った形で貢献したいなと。日本サッカーに、自分が選手としてではなくて、違った形で貢献したいという思いが強くなって、それで引退する覚悟を決めました。
引退会見全文入場者数 12,612人 天候 曇 気温 11.9度
高校入学からこの日まで誰よりも早く練習場にきて誰よりも遅く帰り、その日できなかった事をどうすればできるようになるか考え、翌日それを練習する。その繰り返しを28年間休むことなく愚直にやり続けたヨシカツ。ラストマッチとなるこの試合に向けても特別なことは一切せず、いつもと変わらない準備で臨んだ。
そのヨシカツにサッカーの神様は優しく微笑む。J2昇格を決めた強豪鹿児島は13本のシュートを浴びせるが、ことごとくセーブ。3ヶ月間公式戦から遠ざかっているにもかかわらず、『あたっている』としか言いようがないヨシカツ。試合に出られなくても何も変わらず練習に取り組む男の集大成というべき試合であった。
試合後記者会見全文昨年Jリーグ通算500試合出場を達成し、これからもその数を伸ばしていくものだと思っていた矢先の現役引退発表に私たちもただ驚くばかりです。
現役引退記者会見には130人を超える報道関係の方が、ラストマッチには寒空の中、幣クラブ最高となる12,000人を超える観客の皆様がスタジアムにお集まりくださり、改めてアスリート川口能活の偉大さを知ることとなりました。
本人が会見で述べていた通り、引退の理由は体力の限界でもなく、サッカーへの情熱を失ったわけでもなく、より高いレベルのサッカーを目指すために選手から指導者へ立場を変えて日本のサッカー界に関わりたいというものでした。かつてこうした理由で引退を決めたアスリートを私たちは知りません。もしかすると引退はヨシカツにとってはステップアップの手段に過ぎないのかもしれません。
しかしながらヨシカツのプレーに胸を熱くしてきた多くのファンとってはゴールキーパー川口能活の雄姿は忘れ難いものです。その知名度の高さ、『ヨシカツといえばあの試合』と多くの方がすぐに思い出すことができる『日本一記憶に残るサッカー選手』だと思います。
このメモリアルサイトは多くのファンのみなさまにヨシカツのあの試合を、あの場面を、あのプレーをいつまでも鮮明に心に残していただけるようにつくられたものです。そしてサッカー人 川口能活がより高い場所をめざしてゆくための節目の贈り物となれば幸いです。
幣クラブへ移籍を決断し、プレーして頂いた三年間、誠にありがとうございました。今後のご活躍を心よりお祈りいたしております。
2018年12月2日
株式会社スポーツクラブ相模原
Jリーグ リーグ戦 通算507試合出場
Jリーグカップ戦 通算51試合出場
Jリーグチャンピオンシップ 通算4試合出場
J1・J2入れ替え戦 通算2試合出場
スルガ銀行チャンピオンシップ 通算1試合出場
天皇杯 通算19試合出場
イングランドFLC 通算12試合出場
FAカップ 通算1試合出場
デンマークSAS 通算9試合出場
UEFAヨーロッパリーグ 通算1試合出場
AFCチャンピオンズリーグ 通算1試合出場
サッカーオリンピック代表 通算36試合出場
国際Aマッチ 通算116試合出場